大企業を退職する理由②

 

大企業を退職することを決めました。

 

理由は、2つあります。

 

  1. 自分の会社が世の中で必要とされ続けると信じられなくなったこと

 

  1. 自分の15年後、45歳を想像したときに本当になりたい自分になれる気がしなかったこと。

 

 

今回は2.について書きます。

 

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  1. 自分の15年後、45歳を想像したときに本当になりたい自分になれる気がしなかったこと。

 

まずは本当になりたい自分は何かというのを書きます。

 

シンプルすぎるかもしれませんが、価値のある人間になりたい。と思っています。

価値があるというのは、すなわち、人や世の中に必要とされる人です。

 

例えばそれは妻や子供から必要とされる父親でも、友達から必要とされる気の利いた友人でもいいのです。

そしてさらに、できればその価値を提供する対価としてお金をもらいたい。

そのお金が大金でなくとも、求められている事を提供し、その対価としてお金をもらう。お金を払う人がその人の事を必要としている。そんな人になりたいと思ったのです。

 

 

大企業で働いていると、自分のキャリアに、あたかもレールと言うかルールがあるかの様に錯覚してしまいます。

例えば、企画系は出世頭だとか、開発は出世が遅いとか、海外駐在はエリートコースだとか、そんな話です。

 

そんな話を100%信じる気など毛頭ありませんが、自分のキャリアを考える上でかなり有用な情報になります。

なぜなら、全員がそう思っている組織では、サプライズ人事や大きな変化を起こしづらいし、起こしてこなかった人たちが上にいるということは、中々そういった人事の慣習は変わらないのです。

 

つまり、自分の10年後や15年後は先輩の姿を見ればある程度想像出来ます。

これは自分にとって大変いいことでした。

 

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さて、私が先輩たちの姿をみて思ったこと、そして転職を決意するに至った理由は、ただひとつ、優秀な人を殺してしまう組織だと思ったからです。

 

「あんなに優秀な人でもこの組織にいると、15年後でもあんな仕事しか出来ないのか。こういう考え方になってしまうのか。」

と、いろいろなところで感じるようになりました。

 

 

具体的に話しましょう。

例えば何かの企画を考える時に、とてもシンプルに思考することが出来なくなっているのです。

部署間のしがらみや、上司の好み、そういったものをたくさん盛り込んだ企画を自然と作ってしまうんですね。

私はとてもそういうのに疎い方ですし、そういう事を全くの無駄と考える人です。

 

目的に対してシンプルにそしてインパクトのあるアイディアを実行したいと考えています。

出来はさておき、そういった思考は理系の学生で研究に取り組んでいた方や、そういったしがらみの無い環境で成果目標にコミットしたプロジェクトを経験された方なら当然でしょう。

 

こういったしがらみが全くない組織など、この世に存在しないということももちろん理解しています。

 

しかし、大企業ではそういったそういう無駄を吸収できる体制があるんですね。

だからこそ、それらを是正するインセンティブが起きないのです。

 

 

一方で常に厳しく問われる組織やプロジェクトでは、それらの無駄な考え方は自然と排除されます。

成果を達成するために必要な考え方か否かが大切とされるので、上記のようなヒエラルキーが前提の考え方はなくなります。

 

(ただし、プロジェクトを成功させるために必要なチームワークや人のモチベーションを上げることなどは全くの別物です。ここで言いたいのは、人間関係を無視していいということではなく、ヒエラルキーを廃したゼロベース思考が必要ということです。)

 

 

上述した先輩はおそらく、優秀な新卒社員として入社したのでしょう。

しかし長年の業務において、それらのこの会社でしか通用しない特殊な技術や思考がどんどんと発達してしまい、とても異様なモノに見えるのです。

 

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私がなぜ、会社に在籍しながらも、このような異様さに気づけたかというと、それは北米で勤務を経験出来たことにあります。

つまり前述の「そういったしがらみの無い環境で成果目標にコミットしたプロジェクト」に参加できたのです。

 

超少数の実行部隊の日本人と、現地スタッフ、外部のビジネスパートナーと共に進めるプロジェクトであり、それらのプロジェクトは日本人マネジメントによって主導されていませんでした。

 

初対面から呼び捨てで名前を呼び合う環境のなか、ある意味、プロジェクトの達成という目標のみが共有されているチームには、日本人の中でまかり通っている無駄な気遣いは全くありません。

 

プロジェクトのために構成されたメンバー間にはそもそも役職や上下関係はあらず、お互いの責務のみが明確です。

 

 

そんな環境で働いていたある日、日本人マネジメント向けの仕事をしました。

仕事の内容は、彼の上司へのプロジェクト状況の共有資料作成。

その情報共有の目的は、上司が聞きたがっているから、でした。

 

その時は、もしもその情報共有がうまくいけば、プロジェクトを加速させるために何かのアイディアをくれるかもしれない。

 

そう思って仕事にあたりました。

 

 

その仕事には、ミーティング含め、トータルで20時間以上を費やしたでしょうか。自給2000円で4万円の価値を生む必要がある仕事です。

(4万円あればそれなりのパソコン買えますね。)

 

で、最終的にはその仕事はそれで終わり。上司に共有して終わりなんです。

 

「おいおい。まさかうちの会社はこんなことのためにみんなが仕事をしてるんじゃないよな?」、とめちゃくちゃ不安になったのを覚えています。

「どうか、自分だけが、特別面倒な事に巻き込まれただけ」、であってくれと、強く思いました。

 

 

しかし、残念ながら、そうではありませんでした。

 

その後、複数回に渡り、同じような、目的がはっきりしない、上司のための上司への資料づくりがありました。

 

ある時、前述した優秀(であった)な先輩に聞きました。

「会社ってこんなことばっかりやってるんですか?」

「そうだよ。年齢を重ねれば重ねるほどこういう仕事が増えるんだよ」

と。

 

そこに多少の違和感を覚えつつも、それが仕事だと信じている優秀だった先輩を見て、とても悲しくなりました。

 

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どんなに優秀な人でも、全く世間外れな仕事力しか身につかない環境がある。という事実を目の当たりに出来たことは本当に良かったと思います。

 

また、(少なくとも無意味な報告書を作ることよりは)意義のあるプロジェクトに参加できたことで、意味のあることに対して頑張るという自然な行為を自然だと思える様になれました。

これはとても大切な経験でした。

 

 

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優秀な人は、その環境がよしとする仕事力を身に着け、その会社で偉くなり、また下の人達を同じような尺度で測ります。

 

そういう循環が生むのが、まさしくその企業の文化や社風です。

フットワークが重い大きな会社。とよく言いますが、じゃあすぐにフットワークを軽くできるかというと、それはその組織の上層部を構成する人をまるごと入れ替えることを意味します。

 

 

もちろん、会社の規模や社会全体の富がどんどんと拡大し続ける時代ならそれでもいいでしょう。 なぜなら、その会社で一生を過ごすことが可能だからです。→ 戦後から昭和の終わりまでの日本など。

 

またはそんなことをやっていても利益を脅かされない、守られた組織も問題ないです。 → 役所や政府の外郭団体、既得権益に守られた組織。

 

でも、私は知っています。

 

東芝やシャープが瀕死の状態になり、社会保障制度が破綻している、この21世紀の日本ではそんな、そんな組織は存在しないと。

 

東芝やシャープの50歳になった人々がどう思っているのかわかりません。

しかし、自分なら悲しい。自分の会社が提供しているサービスや商品が世の中から、「必要ありません。というか迷惑です。」と言われるのはとても悲しいでしょう。

 

かと言って、他の会社で働いていけるかというと、それらの人々の得意な仕事は、その会社でしか通用しないので、他の会社でも働けません。

(働けたとしても活躍出来ない)

 

自分に残された人生があと30年もあるというのに。。。

 

そんな悲観的なことまで、先輩の姿を見て思うのでした。

 

 

 

 

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ついつい書き出すととりとめもなく長くなってしまいますね。

 

本来は推敲して、無駄を省くんでしょうけど、まあ日記なのでいいですね。